昭和47年7月24日アサ御理解89節
井出一憲
此の方の道は糸簡単に道を開く事が出来る。これは例えばうーん教師の修行させて貰うて、布教でも出らせて頂くものに対するのではないでしょうかね。此の方の道は傘一本で開ける道だと、何んにも資本も元手もいらんのだと、体一丁いきゃ道は開けると言う訳なんですね。でもいいと言う訳なんです。また事実昔の昔の言うか今でも同じでしょうけど、先生方のお話を聞きますと、本当にあの教会を布教に出る時には、何にも頂かずに貰わずに布教に出たと言われるような話を、いくらも聞いております。ですから結局その先生が信心を持って出られると言う事、言うならば神様を信じて疑わないと言う信心を持って出られると言う事。そこの所を具体的まあ90節には、「道を開くて言うても匹夫の凡人から開くのじゃから物がむつかしゅうてひまが要ると神のおかげで開かして貰うのぞ」と、所謂神のおかげを信じて、えー布教に例えば出ると言う程のね、例え一時はむつかしい事があっても辛抱して行く間には徳が受けられる。
そこからあー人が助かるようにもなり、道が開ける元が信心のない「?」観るなら本当に、このような冒険の話はないのだけれども、命を託して神様へそして言うならば背水の陣を引いて布教に出る。まあそう言うそう言う道の事であろうと思うんですけども、これはうなら教師だけの事じゃありません、お互いお道の信心させて頂く者は、ね、やはりここん所の信心の体得と言うものが必要であります。段々おかげを頂いて行く為にはどうしてもこの傘一本と仰る一本の傘、所謂神様を信じて疑わない、ね、その確信を持って信心を進めて行かなければ、又その信心が進められて行く所から、もうそれはもう本当におかげを頂いて行っておる者だけしか分からない素晴らしい境地と言うかおかげを受けて行く訳です。これわたくし共がまあ様々な食べるにそれこそ食がある訳でなし、お金が在る訳でなし、着るに衣がない住まいがないと言ったような時代なんです。ね、住まいがないと言うてもまあそれこそ、
豚小屋にも等しい豚小屋と言うちゃなんだけども、本当にあのバラック建ての家に等しいお家に住まわせて頂いて、畳もひいていなかったような家で、えー時代、本当に明日食べる物もないと言うような時代にです、もう本当にそれでやはり天ツユをしのがせて頂いたと言う事実です。それでいてです、なら一日だって食べなかったと言う事はなかったと言う事です。これがもう本当に不思議で不思議で溜まらない事であったです。ですから明日の事が不安でなかったんです。なる程贅沢な物今から考えますと事は出来はしませんでした。ね、子供達が何かほしいと言うてもオヤツをやる事も出来ない時代ですから、あーサイダー工場に出ておられる所にお話に行った時に、サッカリンかねズルチンかねサイダーに使うもん、それを状袋に半分ぐらい頂いて帰った、それ家内があのメリケン粉を溶いてねそのズルチンを入れて甘い水を作って子供達におやつ変わりに与えたと言う時代、そう言う事はもう本当にあの沢山ありました。
ね、それこそ5円のキャンデーを買えばいいものを、10円のキャンデーを豊美が買ったと言うて家内が、もう一生懸命もうあげん言うとったと、どうして10円もするとば買うたのち言うてから怒る時代がありました。一本のキャンデーを兄弟二人に分けてこうやる時代がありました。ね、けれどもその一日だって今日は食べるとは辛抱しとかんのと言う事は決してなかったと言う事。これはもう不思議で不思議でたまらなかった、もっと不思議な事はなら事御本部参拝だ、事親教会の御大祭だと言う時には、チョット御供えもさせて下さるし、祭典費も御供えさして下さりよったと言う事、もう其の時になるとですどこからかおかげ頂いておったと言う事、こりゃもう大変な事、だからこちらの信心さえ出来ればこちらの信心さえ出来れば、この通りにおかげが受けられるともう本当に確信した日々でしたね。
ですからもう自分がもう改まると言う事に一生懸命でした、こと神様の事やら日々のうなら食べて行くと言うその事の上に置いてはです、どこに借りずに歩く事もいらなければ、どこに貰いに行く事もいらない、チャント神様がですもうそれは不思議に不思議にそう言う働きを見せて下さった。ね、あたくしあの傘一本で開けると言う事は、そう言う確信と言う事だと思うですね。さあさあ今日はもう食べるのなか、今日食べさせて頂いた事を神様へお礼申し挙げてさあ休ませて頂くぞと、明日は明日で神様が又何とかして下さるに違いはないのだ、もう明日の心配はするなと言うて、休ませて頂くと言う事、頂けると言うそれが確信なんです。それが安心なんです。ね、明日は明日でチャント確かに道が開けてくるおかげを頂いて来たと言う、そう言う事実の積み重ねがです、ね、なら今日の合楽の基礎基盤になっておるのですよ。
ね、そしてならこのように段々道が開けて来た、だからその辺の所がね大事です。ある教会の先生が若くて布教に出られた。胸の病気でえーない命の所を親先生にお取次ぎによって助けられた。その助けられた有り難さが熱心な信心と言う事になり、人を助ける身にならせて貰う事になって修行を終わって布教に出られた。三年経っても五年経っても人が助からない、ね、で等々ある時里の兄さんが見えられましてね、見るに見かねて家に帰らせて頂いて、えー田舎の方でまあ細々でも百姓させてもらやぁ、山もわけてやろう田圃畑も分けてやろうと、家分かれしてやるとだから信心を止めろとは言わんから、一応引き揚げて帰って来てはどうかと兄さんが見えられた。時にその若い先生が言われた事がね、お兄さん本当にご親切は有難いけれどもね、最近のあたしはモチットね苦労がしてみたいと言う心だと言われたち、
ね、そりゃなる程人は助からんそれこそポツンポツンとしかお参りもないけれども、もう最小限度ではあるけれども飢え死にする事のない、その事実をあたし今日あたくしが申しますような所を、体験しておられたのではなかろうか、だから私に間違いがさえなかりゃあたしが本当の信心さえ頂きゃ絶対の道が開ける。その確信がなからなければそう言う事は言やしません。もうそれこそまっとりましたと言わんばかりに何人さんそげんして下さいと言う所でしょう普通なら、けども兄さん最近のあたしは本当モチット苦労がして見たいと言う、その楽しみでその喜びで一杯だと、あんたがそこまで覚悟しとるならあたしが何と言おうかと言うて帰られて、ね、それから間もなく人が助かるようになったと言う、もうこれはあたくしが14~5の自分に、お道の新聞に出ておったのを親先生があの御理解変わりに読んで下さった時に非常に、ま子供ながらも感動した話なんです。信心ちゃ素晴らしい事だなーと私そん時思うたです。
ね、それをならあたくし共の場合でもやっぱりそこん所のですね、言うならば日々の体験を積んで行くその事が楽しゅうして嬉しかったと言う事、ね、もうすでに一本の傘が出けて来た、ね、神様を信じて疑わないと言うそれ、それ一本なんだ、所謂辛抱して行く内に徳が受けられると90節にあります、そのあの時分に力受けておったんだなー、お徳を受けよったんだなーと言う事になります。ですからその事のいかに大事にされなければならんかと言う事は分かります。昨日わたくし家内と話したんです、もう内の若先生どん夫婦見とると本当に素晴らしかねーと、わたくしが言うとです。あの良子さんが若先生が身の廻り御用させて頂きよるとを見よると、もう本当何と言うですか本当に恋女房と言う感じである。もう横から何と言うか隙のない感じでね、もう実に有難いなと言うて家内に私話して頂いた事でした。
事実本当そうです。ね、そしたら家内が言う事です、あたしはどげんですかち、お前は自分で考えてみりゃ分かるじゃないか、もう本当に俺に対すると言う事はもう実にろくそなか。(大爆笑)いや私今朝もそれを思うたんですよ、わたし今朝から水が大変喉が乾くから、休ませて頂いてからお水をね、あの今日は作っといてくれち言うたら、コップ一杯でよかでしょうちこう言う訳です。いいや今日は乾きよるけんであの大きなの作っといてくれちこう言う、はあそうですかち言うてから、さああすこまで持ってきてくれとるのはいいけれど、あたくしは寝間に使うあのお盆と、ここで使うお盆はもう絶対変えるんです。違うんですですからせめて、うならそれにコップも添えてあるかお盆も変えてあるかと思うたら、やっぱ寝間で使ってある、氷だけ入れてあるけどポンとそこに持って来てあるだけ、
もう恋女房のコの字もないと言う感じです。(大爆笑)所がです、ね、もう今度うならあたしの場合は例えばそのそう言うこれはですね、もう本当にどんなに苦しい事があっても、あなたと二人ならば、どげな苦労でもいといませんと言うでしょうが、今若先生の場合はですね、もうそれを本当にあの実感します。それはねあのベタベタすると言ったようなものじゃなくてです、もう何とも言えんそれこそあの恋女房の世話女房ぶりと言うものがですね、あの身に付いて来ておると言う感じです。もう脇から見っといて楽しい脇から見といてありがたいです。ね、ですから今の人達の場合はもうあなたとならば、どげな修行でもいとわないと言う、もう暑い寒いも感じないほどしの事だろうとこう思うです。ね、段々年ふるて参りますとそういう事になってまいりますけれども、あたしどんの場合もやっぱそう言う時代もあった訳ですけれども、所があたくし共それに取って変わった信心と言うもの、神様と言うもの、もうそれこそあたしゃ家内にそれに不足も不平も思う事、なーんでもない、とてもとてもそげんあろうと思うんです、
あれだけの、ね、あの言うならば激しい修行とでも申しましょうか、1週間ばかり前でした、善導寺の原さんが勝手のご用を頂かれて、偶々来たら大変いそがしゅうなさったから、もうそのままおって夕方までおかげを頂いた、そして夜の御祈念を頂かせて頂いた。そしたら親奥様の横に若奥様が座られた、そしたら親奥様が今日は疲れたろち言うてから、その若奥さんに言われてるのを聞いてから、もう涙が流れたと言うて、ここであの涙を流してお届けをなされました。あたくしは内の親奥様なもう本当一時ぐらい休む暇があろと思いよったら、あの忙しいのにまだだーれもおらん、一人で一生懸命黙ーってさあ誰も来てくれんの、あんたもせんのと言う事はもうこれから先も仰っらじゃったち、それでいつ休まれるじゃろか、いつ休まれるじゃろかと思うて一緒に御用させて頂きよったら、結局夜の御祈念の時間までもうバタバタして、勿論御用して頂く人達があればそれ中で一緒に御用頂いておられるが、
まあようもあれで続く事だと思うて、しかもあの若奥さんに今日は疲れたろとこう、言いなさるのを聞きよったら、涙がこぼれる程有難かったと言うてお届けをされました。だからあたしもその事実を知ってましからね、とてもあたしがあればくれ、こげんしてくれなんてとても言えれるあれはないのです。ね、けどんならあたしの場合は恋女房以上の恋女房とでも申しましょうかね、神様がいつもつきっきりについておって下さると言うその所のおかげを頂いておりますから、ね、内の家内は不行き届きだと言うような不平不足なんかも起こりもしません、いよいよ有難くならせて頂く事なのです。どう言う中にあっても、どう言う場合であってもです、ね、神様と二人所謂普通ではそれをね、神我れと共にありとか、同業二人とかと言うような事を口では言いますけど、本当に同業二人と言う実感があったら、
何が無くてもどう言う事にあってもです、もうそれは只有難いばーかりなんです。神がね側で囁き続けるように囁き続けて下さって、おるのではなかろうか思うくらいに有難いです。ね、もしそれが苦労であるならば、それこそモチット苦労がして見たいと言う事になるのです。ね、わたくしは昨日から困る事のない、困る所から困らんで済む境地困るとこから脱却しなければならない、と言う意味の事を皆さんに聞いて頂いているんですけどね、本当に困る事のない日々、それはもう明日食べる物がないと言うても、さあ困ったどうしようかと言ったような事ではなくてです、ね、明日は明日の風が吹く、今日おかげを頂いていると言う事の、それこそ夕べの「?」御理解有難いと言うもの自分の周囲に見ろうと思うたら、もうそれこそ勿体無い程しのおかげを受けておると言う事。そこにです、ね、こばらんで済む境地、
その事を私こんな風に書いてます、「困った困ったと言うと、側におる者も困った困ったになる。自ら困る境地を脱却すると、困らそうとしたものが困って逃げて行く」と言う風に、ね、例えば神様が困らせてやろうと言うような働きがあってもですよ、ほなこれ人の場合もありますよ、中々根性の悪い人がありましてね、知っとったっちゃ知らん振りしてから見とる人がありますよ。ね、所謂こまなしちゃろと言う訳なんです。もうあたしゃこう言う根性が一番振る振る好きません。こりゃほんなこつ、うん自分が知っとるならそれこげんばいち教えたらどこんどげんあるかと思う。ね、けれどもねこちらが困らん境地、ね、所謂自らが困る境地を脱却する事になりますと、困らそうとしたものが今度返って困ってしまうんです。そして逃げて行くです。そこに有難いと言う境地があるのです。ね、あたくし共の場合は、
そう言う事ではなかったろうかと思う。神様がそれこそ、ね、余裕とは更々もうなかった、ね、場合には明日食べる物がないと言うような時もあったけれど、神様が困らせてやろうとしなさったばってん、こっちがいっちょん困っとらん、さあ明日は明日と言いよる。ね、これには神様もホトホトこればっかりは、もう困らさん方が返っていいち言うごつなんなさったんじゃないでしょうか。ね、何十俵の米をいつも積み上げておれれる程しのおかげを頂いておると言う事。これは食べると言う事だけでもですよ。冷蔵庫にはいつも大きな鰤やら鯛やらがチャント何匹か入っとるち言う事です。ね、勿体無い話なんですけれども、ね、ならそれそう言うおかげを頂かせて頂くその元と言うのはです、モチット苦労がして見たいであり、ね、困る境地から脱却する所の修行が、本気でなされた所から、ね、困らんで済むおかげが頂けたんだとこう思うんです。此の方の道は傘一本で開く事が出来る。それこそ糸簡単に、
けれども只今あたくしは、こりゃまだ他に意味がありましょう。けれども聞いて頂いただけでもまあ言うならば、大変な事とは困った事ではないですよ。大変なおかげの頂ける御理解だなと言う事が分かるでしょう。ね、それにはですそれこそ、ね、あなたとならばどんな苦労でもいといませんと言うようなです、その伴侶と言うものが、なからなければならないと言う事、ね、それをうならあたしの場合はいつの場合であっても同業二人である所の、ね、神様と共にある楽しみとか喜びとか、神様がいつも囁きかけて下さる、それを聞いて来たからこそ出けたんだと思うです。まあ兎に角あたくしは思う、もう困らんで済む日々でありたい、こりゃ困ったどうしようか、だから困った困ったになって、困った困った言いよるから周囲の者までが困ってしまわなければならんのです。ね、脱却すると言う事はそれから逃げると言う事じゃないですよ。困ったとか難儀の中から逃避すると言う事じゃないです、
ね、その中に味わいをわからして頂こう、御神意御神慮をわからして頂こうと言うのです。ね、そこから困らんで済む、ね、昨日光橋先生のお話じゃないけれども、一切が神愛だと本当に実感が出きるのです。そう言う境地が開かれた時、なる程傘一本で開かれる事になるとあたしは思います。元はいりません、ね、だから信心の元をしっかり鍛えさして頂いて置くと言う事、ね、しかもその鍛えさせて頂いておるその過程がです、本当に苦しい難儀な事と言わんで済む程しのおかげを、それこそわっきから見とっても楽しゅうしてこたえんと言ったような感じのです、ね、わたくしは思うんですけども、修行と言う事はね、やあーほんにしるしかろと人から同情されるような修行だったら、修行じゅあないと思うです本当な修行じゃないと思うです。どんな修行をさせて頂きよる時でもそれこそ、後光が差す程しのもの、
人に与えれる事だと思うです。素晴らしかな信心とは、ああ言う難儀な中にああ言う風にして生き抜く行かれると言う事はと、もう周囲の者に力を与え周囲の者に光を投げ与えられるようなあたしは修行でなからなければ、ほんな修行じゃないと思うです。ね、そう言うおかげを頂ける道をいつもここでも頂いている訳ですよね。どうぞ。